40年ぶりの志賀高原!
寺子屋スキー場から白馬を望む
2年前にフィンランドのサーリセルカ(オーロラ探訪)でのスキーで自信を回復して、今年は志賀高原へスキーへ行こうと家内と相談して、夜行バスで行きました。
今までは余裕で家内にスキーを教えていたつもりなのに、今回は全く立場が逆転、転びまくって自信喪失、特に初級者用林間コース(東館山→ブナ平)でひどい目にあいました。そういえば、40年前もこのコースは足が痛かった。。。おまけに1度下ったところで、もう一度家内に、寺子屋まで登ろうと言われ、結局、2回も東館山→ブナ平を降りることになりました。
40年前もそうでしたが、あのような狭い林間コースをどうして、高速で降りていけるのでしょうか? 全く自信喪失して、ボーゲンさえもまともにできなくなって、上からは高速で外人さんやら、若者がバンバン降りてきて、こんな年になっても、スキーは恥の上塗りや、、、と落胆していました。
幸い、家内は絶好調で、スイスイと下っていきます。ガケから落ちたように見えた、、とか散々に言われました。サーリセルカのような広い斜面で、また勝負してやる。と誓って志賀高原をあとにしたのでした。
チュニス カルタゴ遺跡賛歌
カルタゴ遺跡へ行こうとチュニス市内からマリン線に乗り、ハンニバル駅で降りる予定だった。何故か、リビアから来たという青年二人とマリン線の中で話がはずみ、一駅乗り過ごしてしまった。次の駅は、Carthage Presidenceという大統領宮殿近くの駅だった。
Carthage Presidence駅からハンニバル駅の方へ戻る
2019年3月当時は、カイドプシ大統領が存命であった。アントニヌス遺跡が大統領宮殿の側にあるため警戒厳重ではあった。
アントニヌス浴場跡遺跡
2000年のロマンを感じるのか、燦燦と輝く地中海の太陽に思いを寄せるのか、或いは監視所から丸見えの場所で、何故か、観光客は我々だけで、一抹の不安を覚える。これ位の根性では、アントニウスにはなれないのだ。当たり前の話。
2019年7月にカイドセプシ大統領は死去。今は次の大統領を選んでいる最中。観光資源に優れ、素晴らしいチュニジアではあるが、先日のチュニス市内の自爆テロ。2015年のバルドー博物館での外国人観光客銃撃事件。日本人3人も犠牲になっている。北アフリカの小国故の不安定さは目につく。
遠い昔、フェニキア時代のハンニバル将軍がイタリア遠征まで行った頃の全盛期のチュニジア。その残像がここにはある。ローマはフェニキアを滅ぼして、覇権を取り戻したのだろうが、2000年経っても地中海の海と太陽は変わらない。
トビリシ、ジョージアの歴史と現実に眩暈を覚える②
トビリシから帰国してしばらくたったある日、私のメールに、
「Come back to your own apartment in Batumi」という怪しげな不動産売り込みの文章が届きました。まだ、トビリシ自体も消化していないのに、バツーミと言われても、全くピンときません。しかしながら、何となく黒海沿岸で保養地ではあるようです。クロアチアのドブロブニクのアパートオーナーさんが、「次はどこへ行くんだい」という質問をしてくれました。「ジョージア」「グルジア」と答えると、ロシアか?という言葉が出てきました。現ジョージア政府は親米で、西欧路線ですが、地勢的にはロシアに従属してきたコーカサスではあります。
我々が泊まった安ホテルの朝飯も、ロシア式というか、割に質実剛健というか、直球だけのメニューでした。それでも十分、おいしくいただけました。
地下鉄もロシア時代に造られた路線で、飾りなどは質素ですが、モーターだけは強力運転という感じでした。
モンゴル帝国やチムール王国であれば、この遠いコーカサス地域も蹂躙できたのでしょうが、並みの民族では、とてもそこまではいきません。さすがに、旧日本軍をもってしても、遠い世界だったと思います。行けてもシベリア抑留の果てまでという感じでしょうか。
トビリシ、ジョージアの歴史と現実に眩暈を覚える①
何故、トビリシへ行ったんだろう。
偶然、オープンジョーの航空券の端がトビリシだったから。。。それもある。
意外に安全な国、欧米志向が強い旧ソ連圏の国、動乱のコーカサス地方の国、チェチェン紛争の地からも近い、ワインがおいしい、街並みが異質、興味津々の国である。
街並みが異質であるのは事実。歴史保存地区だから、古い建物が残っている。では、歴史保存地区以外では、街並みが新しいのか?そんなこともないような、、、
ヒンカリ、日本で言えば、ギョーザ。モンゴル帝国の時代に持ち込まれたのか?或いは、もう少し、あとのティムール帝国時代か? 歴史の交差点だったのはよくわかる。
いずれにしても、時代は、1250-1380年位???
ジョージアは、紀元前5世紀王国がに造られたのが国の始まりーとも書いてあるが、その後の変遷は、世界史を専門に勉強している人でも眩暈しそうなくらい、激しい変遷。幻想的なクラ川とメテヒ教会のあたりも歴史の深さを感じさせる
ソ連時代には抑圧されていたが、実はスターリンはジョージア出身。ゴリ出身とのこと。あのソ連邦英雄、第二次世界大戦の勇者、悪い言えば、独裁と虐殺の王。歴史は繰り返されるのだ。
ワインは酒の飲めない筆者にもやさしいおいしさであった。恐らく、私にとってはベストのワインであった。ワイン通の人の評価はわからない。
チュニスのリビア人
40年以上もエクメネ(居住可能領域)をテーマに探訪しているbogotaです。今回は、家内とチュニジア、バルセロナ、ドブロブニク、トビリシと廻ってきました。何故、この4都市を選んだのか? 最近人気があるとか? 行ってみたいとか? 行ったことがないとか? チケットの都合? エクメネに必然はないのです。結果的にそうなったのですから。受け入れれば良いのです。!?
チュニスについて2日目、時計台広場、ブルギバ大通り裏のホテルから歩いて、マリン駅へ向かいました。
マリン駅へは7-8分で到着しました。マリン線には、1等、2等とあるのですが、係の人に1等2枚でお願いしました。どちらにしても、チケット価格は、50円、100円のラインですので、深刻に考える必要はありません。但し、空港からのタクシーは要注意です。1000円、2000円位まで、ボラれる可能性あります。
マリン駅から1等席(あまり2等席との差はありません)に家内と並んで座っていると、途中駅から、体の大きい、若いアラブ系の男性が2名、前に腰かけてきました(4人掛け)サングラスをかけていましたし、何やら、怪しげでもあります。
車内は人も多いし、イザの場合も何とかなるかーと考えていましたら、
「Lamarsaはどこでおりるのか?」
という質問です。どう見ても我々は、東洋人だろう。見えても中国人だろうと思いながら、何故、私に聞いてきたのか?何が狙いか? そんなことを考えていても仕方がないので、「Lamarsaは最終の駅だよ」と返答しました。少し、中身を覗いてみようと、
「Where are you from?」と聞くと、少しはにかみながら、「リビア」と答えました。
それで、4人とも笑ってしまったのですが、リビアのどの地域から来たのか?聞いてみたのですが、要領を得ません。どうやら、東部地域から来たようですが、だからといって、イスラム原理主義派か世俗派か、詳細は日本人にはわかりません。
このあと、彼らは、マレーシアに英語の勉強で1年間留学するとのことでした。少し、おしゃべりが過ぎて、ハンニバル駅で降りれなくて、1駅乗り過ごしてしまいました。
次の駅で降りて、歩いて、ローマ遺跡へ向かうことにしました。
まあ、イスラム過激派というわけでもなく、地方の豪族のお坊ちゃまという分析ですが、それ以上はわかりません。また新しいエクメネの発見でしょうか。。。
4/21スリランカで爆弾テロがありました。リビアのマリン線で出会った二人のリビア人は、本当にマレーシアにいったんだろうか?やはり過激派テロの仲間だったんだろうか?いまも、あれこれ、考えますが、真実はわかりません。